「幸せだ」と思える時
宮田 稔
1,ある年の1月1日の日に
「先生、夏美が、正月に東京から帰って来るって。『先生に会いたい』って言ってるから、先生、時間とってくれる?」
年末も近いある日のこと、教え子の直子さんから電話がかかってきた。
「ああいいよ。4,5人やったら、家に来たらいいよ、ご馳走するから。」
と言って、電話を切ったのだが、直子さんは、かなりの同級生に電話をしてくれたらしく、1月1日、16人の教え子と居酒屋で同窓会をすることになった。
夏美さんは、養護施設で小学校6年間を過ごした。
中学校からは京都市から離れて両親と暮らすことになったが、直子さんはその後も夏美さんと連絡をとっていた。
「夏美はなあ、私が連絡とってんのに、なかなかメ ールもくれへんのやで。先生、ひどいと思わへん?」と、よく私に話をしてくれる。その度に私は、「あんたみたいに人のいいのがいるから、世の中何とかなるのや。」と、話をしている。
世話好きの直子さんは、何回か東京に行って夏美さんと会っていた。直子さんは、今年32歳。大学に入ったその年に結婚、出産した。私は、今から6年前、学童クラブの行政区を超えた会議で再会した。30を過ぎて結婚した私の子どもと直子さんの子どもが同世代ということもあり、それ以来家族ぐるみの付き合いをしている。いつも明るく元気な直子さんだが、7年前、夫のDVが原因で離婚したという。姉の薦めもあって、ある時から夫が何をしたかという事実も含めて日記につけていたらしい。「そのことが、離婚調停の時にとても役だった」と、語っていた。また、現在エステシャンの店長として活躍中の彼女は、お客さんを確保するのに自筆の手紙をよく書くのだそうだ。「小学校の時、先生に詩や作文をいっぱい書かされたから、手紙を書くのは得意なの。手紙の評判もいいわよ。」と、笑顔で話してくれた。
久しぶりに会った夏美さんは、「最近代わった職場で元気に頑張っている」と話してくれた。私は、
「元気そうで安心したわ」と、ビールを酌み交わした。
同窓会には、中学校で不登校になった拓也君も来ていた。年賀状のやりとりはしていたので、拓也君が今、介護士の仕事をしていることは知っていた。
「自分の面倒も見られない君が、他人の面倒を見ているなんてなあ・・・しかも、介護の仕事をしているなんてなあ。変われば変わるもんやんなあ」
との私の戯言に、
「先生、きついわあ・・・」と、拓也君は笑いながら話していた。拓也君は、「今日は三時から、仕事なんです。」と、早々に同窓会を引き上げて行った。
1月4日に届いた年賀状には、
「みんなが変わっていて、びっくりしました。女の子はきれいになっていましたね。久しぶりにみんなに会えて嬉しかったです。あの頃と変わっていなかったのは、先生だけかも・・・」と、書いてあった。
拓也君が、不登校になったのは中学2年の時。
何も知らなかった私に、「先生、拓也君がこの頃学校に行けなくなっているんです。先生、拓也君のお母さんの話を聞いてもらえませんか」と電話をかけてこられたのは、拓也君の同級生のお母さんだった。
早速、拓也君のお母さんの所へ行き、話を聞いた。今から、18年前のこと。不登校に対する考え方が今ほどはっきりしていなかった市教委は、「生活リズムを整える」というこの一点で、不登校を乗り切ろうとしていたように思う。中学校の担任は、大変『熱心』な先生で、「休んでいる時も、学校の時間割通りに過ごすように」と電話をかけ続けていた。
私は、担任の先生に「拓也君は、学校をさぼろうと思って学校に行かないのではなく、学校に行きたいのに玄関から足を踏み出せずに悩んでいるのに、そんなことをしたら『学校』が、電話を通して拓也君に迫ってくるようなものだから、今の対応はやめた方がいいと思う。」というようなことを話した。
拓也君のお父さんも、「息子がさぼって学校に行かない」と思っておられたようで、拓也君を殴って無理矢理学校に行かせようとしていた。
私は、「不登校とは何か、どういう風に親が子どもに向き合えばいいのか」を何回も話をした。
お母さんは、拓也君のことが気になり、買い物などを除きほとんど引きこもりの状況であったので「大丈夫、お母さん。拓也君はバカなことはしないから、気分転換に嵐山にでも散歩にいったらいいと思う」と、話をしたりした。
それから、大阪で先生をされているという拓也君の親戚の方が私の話した方向を強く支持して下さったとかで、お父さんも暴力で息子を学校に行かせるということはしなくなった。また、同級生も心配して、「僕が、拓也と話をするわ、先生。」と力になってくれた。そんなこんなも幸いしてか、3年生になったら、再び学校に通えるようになった。
私は、友だちの力と拓也君のご両親はもちろんのこと、その周りにいる保護者同士の絆の力に改めて驚かされた。頭下がる思いであった。
1日の日は、居酒屋からカラオケへハシゴし、人混みの中を祇園八坂神社へお参りに行った。
子どもたちの健康と幸せを願って、さよならした。
その当時の子どもの作品である。
先生のスリッパ
6年
先生のスリッパ。
新しいのとかえはった。
前のスリッパは、いつも口を開けて笑っていた。
私は、それが気に入っていた。
でも、今のスリッパはむっつり口を閉じている。
新しいスリッパも、いつの日か口が開き、笑う時が来るかなあ・・・・・・
私が小さかった時
6年
私が小さかった時、お母さんをすごく心配させたそうだ。
「ーーあんたの小さかった時、覚えてるで。まさよのことはあんまりないけど、あんたのことは、ほんまいっぱい覚えてる。」
「あんたって子はな、家に帰らんかっては心配させ、乳剤のみかけては心配させ、肺炎おこしかけては心配させ・・・・・」
私が小さかった時、私は、その時、私がしたことを覚えていない。
だけど、私を生んで、心配しながら私を育ててくれたお母さんは、
話の最後を、
「たぶん、いつまでも覚えてるやろな・・・・」 と、しめくくった。