「存在レベルの「自己肯定感」を育む関係」高垣忠一郎
赤ん坊が泣く。そのとき,わたしたちは,「うるさいから黙れ!」とは言わない。その「泣き」が 何を意味しているのかを理解しようとし,また理解して「そうか,よし,よし,おしめが濡れたのか,よし,よし,いまおしめをかえてやるからな」という風に向き合う。その時,私たちは「小便などして,ほんまにダメなやつだ!」とはいわない。「よし,よし」だ。その「よし,よし」は「おまえはオシッコが出きる立派な子だ」という評価の「よし,よし」ではない。「おしめが濡れたのだね,わかった,わかった」の「よし,よし」だし,「かまわないよ,大丈夫だよ」という「よしよし」だ。それは相手の訴えをしっかり受けとめ,理解したという「よし,よし」だし,それでいいのだよ という赦しの「よし,よし」である。筆者の言う「自分が自分であって大丈夫」の自己肯定感の「肯定」はこの理解と赦しの「よし,よし」であって,評価の「よし」ではない。 理解と赦しの「よし,よし」は存在そのものを肯定する。迷惑を掛ける存在だけど,存在していていいのだよと。
しかし,今日の新自由主義イデオロギーとセーフティネットを弛める規制緩和が まかり通る社会では迷惑を掛ける存在は否定される(上からの「自立自助」,「自己責任」のイデオロギー攻撃)。このような状況のなかで,教育や子育ては「よい子」でないと見捨てるぞという脅しのメッセージをバックに子どもや若者たちを駆りたてる様相を強くしている。訴えをしっかりと受けとめ理解し,「よし,よし」と赦す関係がどんどん失われていっている。痛みや苦しみを訴え,それを「お腹が痛いのか,よしよし」と受けとめ,手当をしてもらえる関係のなかで,子どもたちは,「自分が自分であって大丈夫」という安心感を得て,自分で自分に「よし,よし」ができる赦しと感情コントロールの力を獲得していくのである。
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