「あかちゃんのうた 松谷みよこ」 後書きをひきながら・・・・
母親の話しかけ
波多野寬治
乳幼児の言葉の発達や獲得は、まわりの”反応度”つまり子どもが母親や養育者と、つねにコミュニケーションできるかどうかが大きく作用するといえましょう。
(中略)
坪田譲治氏が「幼い子どもにことばをおしえるということは、外国人に日本語をおしえるようなものではありません。語学としておしえるのではないのです。つまりこれは、この世界、この人生をおしえることなのです。」と書かれていますが、たいせつな心理を突いていると思います。(中略)
もし、あかちゃんにはなんにもわからないのだからと、おむつをかえるのにも散歩をするのにも、ことばもなく、事務的にかたづけていった場合、あかちゃんになにが伝わるでしょう。しかし、この本のように、いきいきした親(養育者)が、にこにこ笑いかけ、日本語の楽しいリズムで語りかけ、ゆすったり、さわったり、くすぐったりすれば、あかちゃんは、どんなに喜んで笑ったり、動いたりすることでしょう。
親(養育者)もいっしょにしあわせな時間を持つことになります。このとき、あかちゃんは人間であるよろこびをーー坪田氏のことばのように、この世界を、人生を受けとめて いるのです。
そしてこの無心なよろこびが、ことばの発達、感覚神経、運動神経、音楽的感覚を育てていくのです。あかちゃんの喜ぶ、”かいぐりかいぐり”や、”ここはとうさんにたところ”などのわらべうたに、現代の心理学からみても、先祖の大きなちえを感じます。
私は、ここに出てくる「親・養育者」を「先生」に、「赤ちゃん」を「子ども」に置き換えたら、教師が学校教育の中で果たすべき役割が自覚できるのではないかと思うのです。教師は、子ども達に、国語を含む教科教育そして、学級作りを含む学校教育の中で、「この世界、この人生をおしえること」を通して、「ことばの発達、感覚神経、運動神経、音楽的感覚を育てていく」のです。 そして、それらの行為は「教師もいっしょにしあわせな時間を持つことになります。このとき、子どもは人間であるよろこびをーー坪田氏のことばのように、この世界を、人生を受けとめて」 いくのだと思うのです。
私には、3人の子どもがいます。3人とも成人ですが、小さいときに「いないいないばあ」をしたり、ぼたんがつけられるまで、「お父さん、見ててや」と、何回も何回も挑戦したりしました。ボタンがつけられたとき思わず私が拍手すると、満面の笑みを浮かべていたことをはっきりと覚えています。
それは、学校教育の中でも一緒でした。「せんせい、見ててや」の世界にどれだけ出会ったことでしょう。学習支援27時間講師もしていましたが、教室の後ろで必死に丸付けする私に、何人もの子ども達が、「せんせ、見ててや」と、こまや剣玉・あやとりを見せに来てくれました。そのたびに、拍手をしたり、「前より上手になったやん。」とか「練習したらできるよ。」等と声をかけたりしたのですが、嬉しそうに笑顔を見せる子ども達を見ていると、とても幸せな気持ちになりました。